復興への一歩展

 今年も3月11日が近づき、多くのメディアが「あれから3年……」と、時を刻んだ報道をしています。しかし、被災した人にしてみれば、「勝手に時を刻まないで欲しい。情況は毎日続いているんだ!」という思いがあるのではないでしょうか?
 我々、聖学院に関わる者は、常に頭の中に、被災した人たちのこと、そして、今の自分にできることについて思考する襞(ひだ)を持っていたいと考えます。
 聖学院中学校高等学校図書館では、「復興への一歩」と題した写真展を開催し、司書教諭が、これまで数回にわたって被災地を訪問した時の記録を公開することにしました。
 本展においては、被災した「方」という表現は、敢えて使いません。敬して遠ざけるような距離感を生むことにつながるからです。あくまでも被災した人たちは、3月10日までは、我々と何ら変わらない日常を過ごしていたということも含めて、被災地の今後の復興について考えていきたいと思います。



 
津波により倒壊した堤防。
(岩手県田野畑村) 
海水の中に水道管が見える。地盤沈下による。
(岩手県陸前高田) 
  コンクリートも波打つ衝撃だった。
(岩手県田野畑村) 
  堤防の復旧工事。
(岩手県田野畑村) 
   復旧工事が続く。
(岩手県田野畑村)
   リアス式海岸のため、波が荒い。
(岩手県田野畑村)
   津波により倒壊した堤防。
(岩手県田野畑村)
   波の力で曲げられたガードレールのむこうを、復旧工事車両が通る。
(岩手県田野畑村)
  町民の力で再開された羅賀荘。手前のガードレールが痛々しい。
(岩手県田野畑村) 
  南三陸鉄道は大打撃を負った。
(岩手県田野畑村) 
  津波の被害を受けた商店。
(福島県南三陸町) 
  新しいテトラポットが準備される。
(岩手県田野畑村) 
  漁船の持ち主は福島県の会社である。
(福島県南三陸町) 
  置き去りにされた自動車
(福島県南三陸町) 
  南三陸鉄道再開工事。
(岩手県田野畑村) 
  国からの補助が下りる間に更地にしようとする人が多い反面、解体をためらう人もいる。
(福島県南三陸町) 
  破壊された防波堤
(岩手県田野畑村) 
  傾いた県名碑
(岩手県田野畑村) 
   「更地になると、方向感覚を失う」と、地元の人は言う。
(福島県南三陸町)
   「羅賀荘」の従業員は、みな仮設住宅から通っている。
(岩手県田野畑村)
  倒壊した防波堤。
(岩手県田野畑村) 
   南三陸鉄道再開工事。
(岩手県田野畑村)
  道路に埋まった家庭用コンセント
(岩手県陸前高田) 
   ホテルの看板に注目。
(福島県南三陸町)
  地盤沈下の後がはっきりとわかる。
(岩手県陸前高田) 
  倒壊した家屋や自動車が撤去された。
(岩手県陸前高田) 
  それでも花は咲く。
(福島県南三陸町) 
  「ここまで津波が来た」と知らせる表示板
(岩手県田野畑村) 
  オランダ人とイギリス人が力を合わせて作った「希望の丘」
(岩手県陸前高田) 
  吉村明が「東北大津波」を執筆した際に投宿した本家旅館。津波は、本家旅館の白い石垣まで迫っていた。
(岩手県田野畑村) 
  南三陸鉄道再開工事。
(岩手県田野畑村) 
  残った家となくなった家。
(岩手県田野畑村) 
  倒壊した防波堤
(岩手県田野畑村) 
  破壊された防波堤とかさ上げ工事。
(岩手県田野畑村) 
  どの高さまで津波にやられたかが、一目でわかる。
(岩手県陸前高田) 
  破壊された防波堤。
(岩手県田野畑村) 
  「奇跡の一本松」の向かい側は、公民館だった。
(岩手県陸前高田) 
   「奇跡の一本松」も塩害により伐採され、いまはモニュメントとして保存されている。
(岩手県陸前高田)
  防波堤内は、立入禁止が続いている。
(岩手県田野畑村) 
  復興遺産として残したい市側と、「ストレスのもとになる」という地元住民との話し合いの結果、タンカーは、この後、解体された。
(福島県南三陸) 
  あの日に、避難所として使われたホテル。
(南三陸町気仙沼) 
  完成間近の野球場は、津波に遭い、閉鎖・解体された。 
  あの日、皆が坂を駆け上がった。
(岩手県田野畑村) 
  散乱したテトラポット。
(岩手県田野畑村) 
  平時は、防波堤が潮の流れを止めている。
(岩手県田野畑村) 
   津波により破壊された堤防。
(岩手県田野畑村)
   「奇跡の一本松」を残そう!
(岩手県陸前高田)
   地盤沈下により、段差が生じた公民館
(岩手県陸前高田)
  津波により傾いたガードレール
(岩手県田野畑村) 
   高台より羅賀荘を臨む。
(岩手県田野畑村)

 震災後、何度か被災地を訪れました。
 しかし、最初のうちは、写真を撮ることが出来ずに帰京することが続きました。
あの惨状を写真に収めることが、不謹慎極まりない行為のように思えて、強い抵抗を感じました。
 それが変化したのが、南三陸で出会った語り部役の方の言葉でした。
「あなたたちが今、立っているところに、人が住んでいたかもしれない。そういうことに十分、配慮したうえで、写真を撮ってください。これが現実なんです。東京に帰ったら、少しでも多くの人たちに、この現実を伝えてください」

 そうして撮影した写真も、やはり公開することがためらわれ、ずっとパソコンの中にありました。

 しかし、ここに来て、関東と東北との間で、報道にあまりに温度差があることを考え、中央のメディアが伝えていない部分を選んで展示することにしました。

 今後も被災地の方と連絡を取り合って、復興のための支援を続けてまいります。